言葉を伝える練習帳。


by sumi0313
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

回顧

久しぶりに、学生時代を過ごした街に来た。

たまたま、気になった小さなブックフェスがその街のカフェでやっていると知って、何の気なしに来てみたのだけど、駅に着いて地下鉄の出口を上がったら、胸を抉られるような懐かしさを感じた。

あのころ当たり前に歩いていた道をたどる。
ああこの店まだあるなあ。変わらないなあ。あ、ここはなんか改装しておしゃれになってる。こんな店、出来たんだ。
変わったことと、変わらないことにいちいち小さく心のなかで驚きながら、講堂の景色が見えてくる。

ブックフェスをやっているcat's cradleというカフェは、大学の講堂のすぐ近くにあった。私がいた頃にはなかったと思うけれど、今月で閉めてしまうらしい。
当時あれば、ほんと行きたかったな。

歌集をいくつか買って、さてどこの喫茶店で読もうか、と思案。
シャノアール、ぷらんたん、ゴトー。
候補はあるけど、ゴトーのケーキが食べたかったので、さっそく入って洋梨のフランを頼んだ。
入り口すぐの角の席に、昔の自分を見た気がした。
[PR]
# by sumi0313 | 2017-09-18 18:34 | おでかけ

how to take

今日、思いきって聞いてみて良かった。
私の発する言葉が、思ってもいないように(それも、ネガティブな方向に)受け取られていることが分かったから。
いやいや、そんな風に捉えないでよ…とも思ったけれど、もしかしたらそれは私もよくやってしまっていることなんじゃないか、すぐそんな思いが沸き上がって、そうか、そう捉えてしまうこともあるか、と思い直した。
私はもしかして、今までいろんな人の言動を変にねじ曲げて受け止めてきてしまっていたのかもしれない。

私にしろ彼にしろ、周囲の言動をそういう風に受け取ってしまう時、それは自分の中に何らかの負い目を感じている時なんじゃないだろうか。
その負い目が正当なものであるかどうかは関係ない。自分で勝手に作り出して勝手に抱え込んでしまっている負い目も、おそらくわりとあるのだと思う。

何かを良くないように受け取ってしまう時、自分の中の何の負い目がそうさせているのか、そしてその負い目は果たして抱えているべきなのか、少し立ち止まって考えられたらいいのかな。
癖のようなものだから、なかなか気づきにくいと思うけど。

そして誰かが抱えている負い目は、わかることもあるけれど、おそらくほとんどわからない。
でも、今日みたく話すことで、その人が抱えている負い目をわかることができる。
そうしたら、もう少し気をつけて接することができる、気がする。
うまくすれば、もしかしたら、それを少し軽減させることさえできるかもしれない。
それは私にとってまだ難しいけれど、そんな意識を持っていられたらいいなと思う。

やっぱり話さないと、わからないんだね。
踏み込んだ話するのって、すごく苦手だけど、今日は聞くことができてよかった。

[PR]
# by sumi0313 | 2017-09-13 01:47 | ひびおもう

くちなし

くちなしの花びらを一枚摘み取ろうとしたら、途中で切れてしまった。
白くやや肉厚な花弁は、なんだかつややかな和紙みたいだ。

切れたところをかいでみたら、あのふんわりと甘く妖艶な香りというよりも、少し青臭いえぐみのある匂い。
意外な感じがした。
切れたところから、葉脈が少しずつ茶色になっていく。さっきの匂いは、花の血の匂いなのだと思い至った。
私が好きなあの匂いは、花が生きていないとかぐことができないんだろうか。

花弁を手で、繊維に沿って割いてみる。
白が裂ける、その血の匂いが指先につく。
やわらかく、音もなく裂けていく白い花びらの表面ははかすかにしっとりとしていて、きめこまやかで、私の指の腹に馴染む。

それにしても、子どもの頃と変わって、花や枝を手折ることに随分と罪悪感を感じるようになったなぁと思う。
[PR]
# by sumi0313 | 2017-07-08 00:19 | ひびおもう

フクロウカフェ

フクロウカフェなるものに行った。

フクロウだけでなく、小鳥やハリネズミなどもいる。
普段なかなか触れ合えない動物たちに、直接触れることができるという意味では、貴重なのかもしれない。

途中、小型のフクロウが肩に載ってきてくれた。ヒナの頃からその店で育てられたので、全く人を警戒しないのだという。他の小動物たちも、抱いたり撫でたりして少しの時間を過ごした。

猫カフェとかうさぎカフェとか、動物との触れ合いに主軸を置いた店はいろいろあるけれど、行くのは初めてだった。なんとなく、自分の感覚に矛盾が生じて、混乱する。かわいい。でも、かわいそう。

触れ合うために、店員さんがケージから出してくれた小鳥は、尾羽がぼろぼろだった。よく指をかむ。ストレスなんじゃないだろうか、そんなことを思いながらそれでも私は撫でる。腕から肩へ伝っていって、私の耳も軽くかむ。かわいい。でも、痛ましい。

本来夜行性のハリネズミを抱っこする。抱かれているうちはせわしなく動くけれど、少し放置すると体を丸めて眠りだす。そうだよね、眠いよね、と思う。それでも私は撫でる。かわいい。でも。

フクロウは大型のものだと、羽根を広げると180cmにもなるという。広げれば羽根がどこかへ必ずぶつかってしまいそうな、細長い狭い空間に、十数羽のフクロウたち。みんなじっとしている。

彼らは昼行性と夜行性のものがいるらしいけれど、夜行性の種類のものも、ここでは餌をあげるのが昼間だから昼も起きていたりするらしい。
フクロウは狩り以外の時はほとんどじっとして体力温存に努めるのだというが、ここでは狩りなどおろか、満足に飛ぶことすらできない。じっとしていることしかできない。

私の肩に載ったフクロウは、ずっと窓の外を見ていた。雨が気になるのかも、というようなニュアンスのことをスタッフの女性が言った。雨が気になるフクロウ。

全体としてはかわいかった。楽しかった。興味深かった。知識も増えた。
でも、かすかな後味の悪さが残留した。その後味の悪さは、時間が経てば経つほど、大きくなっている。

雨が気になるフクロウ、飛べないフクロウ、それはフクロウのフクロウたる根源が丸ごと損なわれてしまっているような気がする。

人間(私)のエゴとか、動物園との違いとか、ぐるぐると考え出すときりがなくなってきた。
でも、できれば考えて、まとまった文章にできたらなあ、と思う。
[PR]
# by sumi0313 | 2017-06-20 23:51 | ひびおもう

読書会メモ:嵐が丘

二回目の読書会。
嵐が丘は学生時代に一度読んだきり、だいぶ中身を忘れてしまっていた。何か激しい感じだったよなーと思いながら読んだら、まあ確かにそうだった。

今回も本そのものを読んだだけで、ほとんど予備知識を入れぬまま参加したので、いろんな人の視点に加えて、作者の環境や背景、嵐が丘という作品が文学研究的にはどう捉えられているのかなど、そういう話も聞けて面白かった。

舞台はイギリス北部、風が吹きすさび荒涼とした丘が連なる田舎にある、アンショオ家とリントン家。
もともとはリントン家であったスラシクロス・グレンジに引っ越してきた若い男ロックウッドに、グレンジにもともといた家政婦のネリイから、アンショオ家、リントン家にまつわる長く嵐のような話を聞く、というのがこの物語の基本的な形式。
ネリイはその時々でアンショオ家であるワザリング・ハイツ、リントン家のスラシクロス・グレンジともに家政婦として働き、深く関わってきた。

アンショオ家の、美しいけれどわがままで気性の激しいキャサリン、キャサリンの父が偶然引き取ってきた、暗く卑屈な孤児ヒースクリフを中心に、両家の人物たちが約二世代に渡り実に激しく、密にぶつかり絡まりあう。
これは私の感想だけれど、10人程いる登場人物はほぼ全員性格に難ありで(生育の環境によるところも多いだろうが)、正直言って感情移入しづらかった。
それでも彼らのあまりに激しい言動に気圧されつつ、時に心の中でつっこみをいれながらも、目まぐるしく展開するストーリーについページをめくってしまう不思議な魅力のある物語だ。

ところで私は全く知らなかったのだけれど、文学評論?というか技法?において、この嵐が丘のネリイは「信頼できない語り手」と呼ばれる人物らしい。
なんとなくもやもやしていたのが、そのキーワードで腑に落ちた。
語り手が神の視点的な存在ではなく、登場人物の一人であるのなら、必ずその人物の主観というフィルターを通してその物語は語られることになる。その時点で、それはもはやありのままの出来事ではない。
フィクションの中のフィクション、虚構のなかの虚構。語り手を通してしか知れない以上、フィクションではあるがその物語の真実は、曖昧なままだ。
その二重構造が、まさにもやもやさせると共に面白さを掻き立てる所以なんじゃないだろうか。
すべてを明瞭に書ききってしまわず、読書に想像、推量の余地を大いに残す。意識的にするにせよ無意識的にするにせよ、それは物語を面白くするある種のテクニックだと思うけれど、この物語の構成は、そのテクニックの高度な亜種のような気がしてくる。
このネリイが「信頼できない語り手」であることを念頭においてもう一度読み返してみたら、またすごく面白そうだと思う。

ネリイの話す内容に主観的なバイアスがかかっていることを、たとえ「信頼できない語り手」という言葉を知らずともやはり感じるからか、ネリイをあまり好きになれないという声も多かった。
確かに、私も多少感じた。でも考えてみれば、「信頼できない語り手」、これはある意味とても人間的であるとも言えるんじゃないだろうか。
人が何かについて語るとき、主観からは決して逃げられないのだから、それはごく自然のことなのである。
人が何かの話を主観にしたがって語ることによる些細な歪曲の雰囲気、それを実に自然に書きあらわす(だからこそ読み手は不審を抱くのである)エミリ・ブロンテは改めてすごいような気がしてきた。
[PR]
# by sumi0313 | 2017-05-15 23:40 | ほんよみ