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by sumi0313
| 2024-01-15 20:20
| でんごん
2018年の1月末から2月、一人で三泊四日の旅をした。思い返せば、ずっと電車に乗っている旅だった。
主な目的は福島のいわき市でやっていたアートイベントと、秋田の祖父の墓参りだけ。他に何を見るか、そもそもどうやって行くか、どこに泊まるか、いつ帰るかさえあまり考えないで出発した。
1日目はいわきでイベントを見て回り(わくわくと驚きと学び、エモーションの入り混じったとても印象深いアートイベントだった)、そのまま泊まった。
どうしてそう決めたのかもう覚えていないけれど、翌日のルートをいろいろ考えていたのだろう、明日は常磐線でひたすら北上し、ひとまず仙台まで行くことにした。
スマートフォンは本当に便利で、その日泊まるホテルも、電車の情報もすぐに見つかる。
当時、常磐線は東日本大震災の影響で、まだ一部開通していなかった。そのため、数駅の間を代替のバスが運行していることを知った。被災地を、一度この目で見るのもいいかもしれない、そう思った。
いわきの夜、適当に入ったお店で店員さんにそのことを話すと、ぜひ見てくださいと言ってくれた。そのあと、カウンターで隣になった地元の人とたまたま話が弾んで、ごちそうになってしまった。
2日目、常磐線に乗り仙台を目指す。
常磐線の通っている最後の駅、富岡に着いた。そこから代替バスに乗り、浪江駅まで帰還困難区域のど真ん中、国道6号線を北上する。そしてまた、浪江から常磐線に乗る。
正直、ルートを決めたときは軽い気持ちだった。果たしてどんなものかな、くらいだった。
富岡駅は当たり前だけど真新しくて、付近はまだまだ工事の途中だった。
「がんばろう富岡」と書かれた大きな幕が掲げられていて、ああ、ここはあの日から7年ずっとがんばり続けているんだ、忘れてしまっていてごめんと思った。
バスはそんなに大きくなかったけれど、客はまばらで、みんな少しずつ離れて席を占めた。運転手さんから、一通りの説明があったように思う。
バスにはガイガーカウンターが設置されているようで、車内の前方には、まるで案内板のように放射能の量を示す数値が液晶画面に表示されている。数値は常に上がり下がりしていて、ここが被爆地であることを否が応でも思い知らされた。
バスはゆっくり発車して、やがて国道6号線に入る。窓からは町並みが見える。
言い方が本当に悪いけれど、死んだ町並みだった。自然になくなったのではない、ある日突然終わりを告げられた町。いや、終わることさえ許されなかった町。何もかもそのままで、植物だけは繁茂して。
町の中身はそのままに、表面だけ時間の経過を表すように草や蔦が覆っていた。
崩れた家屋、割れたガラスの散らばるホームセンターやディーラーの正面、一方で、崩れていない建物の窓には白いカーテンがかかっていて、学習塾の看板が目の前を通り過ぎる。
道のそこかしこが蛇腹式のシャッターで塞がれ、「帰還困難区域」の大きな立て看板が添えられている。ここも、ここも、ここも。
汚染された土やがれきの詰まった黒い袋が積み上げられている。ここにも、ここにも、ここにも。
途中、視界が開けて、のっぺりとした更地が見える。コの字形の、石かコンクリートの壁だけがある。家を囲んでいたであろう石塀だと気づくけれど、その真ん中にあるべきものはない。
そんな景色を眺めながら、どうしようもなく泣けてきて、自分でも驚いた。いろんなものにひしゃげられた町の姿が眼前にあって、胸が苦しかった。
次第に町の様子が変わり、浪江駅に着いた。富岡駅を出発してから、およそ40分くらいだったろうか。まだ少ないかもしれないけれど、このあたりは新しい建物も建って、ちゃんと人が暮らす町だ。少しだけほっとした。バスを降りて再び常磐線に乗り、仙台へ向かった。
あのシャッターや看板は、いつ誰が設置したのか。あのおびただしい量の黒いフレコンバッグを、いつ誰が満たし、積み上げたのか。今さらになって思う。
あの放射線廃棄物のかたまりは、バスでも常磐線でもいろんなところで目にしたけれど、本当に整然と、きれいにきれいに積まれていた。それも、今さらになって思い出す。
常磐線は、2020年についに富岡-浪江間が開通し、全線復旧した。5年経って、あの場所は今どうなっているんだろうか。
あのバスはもう運行していないだろう。
忘れてはいけない、ずっと心にとどめておくべき景色だとは思いながらも、記憶は薄れつつある。それが昨日の深夜、ふとあの時のことを思い出したら、短歌になった。
私は短歌を詠むのが趣味だけど、あの旅ではあまり作れなかった。特にバスでのことは、当時一つも歌に残せていなかったと思う。
なぜ今になって急に詠めたのか不思議だ。それでも、5年越しでも、形に残せてよかった。
そうして、思い出せることだけでも書いておこうと思い、この文を書いている。
記憶がおぼろげな部分もあって、混同していたり思い違いをしていたりする部分もあるかもしれない。どれが当時感じたことでどれがあとから思ったことなのか、曖昧でもある。
けれど、書くことができてよかった。
稲穂の影を覚えているか
幾年も春待つ田には黒いフレコン
さらの地に石塀の痕(あと)ぽつねんと
そこには多分、家があった
カーテンのかかる窓際
主な目的は福島のいわき市でやっていたアートイベントと、秋田の祖父の墓参りだけ。他に何を見るか、そもそもどうやって行くか、どこに泊まるか、いつ帰るかさえあまり考えないで出発した。
1日目はいわきでイベントを見て回り(わくわくと驚きと学び、エモーションの入り混じったとても印象深いアートイベントだった)、そのまま泊まった。
どうしてそう決めたのかもう覚えていないけれど、翌日のルートをいろいろ考えていたのだろう、明日は常磐線でひたすら北上し、ひとまず仙台まで行くことにした。
スマートフォンは本当に便利で、その日泊まるホテルも、電車の情報もすぐに見つかる。
当時、常磐線は東日本大震災の影響で、まだ一部開通していなかった。そのため、数駅の間を代替のバスが運行していることを知った。被災地を、一度この目で見るのもいいかもしれない、そう思った。
いわきの夜、適当に入ったお店で店員さんにそのことを話すと、ぜひ見てくださいと言ってくれた。そのあと、カウンターで隣になった地元の人とたまたま話が弾んで、ごちそうになってしまった。
2日目、常磐線に乗り仙台を目指す。
常磐線の通っている最後の駅、富岡に着いた。そこから代替バスに乗り、浪江駅まで帰還困難区域のど真ん中、国道6号線を北上する。そしてまた、浪江から常磐線に乗る。
正直、ルートを決めたときは軽い気持ちだった。果たしてどんなものかな、くらいだった。
富岡駅は当たり前だけど真新しくて、付近はまだまだ工事の途中だった。
「がんばろう富岡」と書かれた大きな幕が掲げられていて、ああ、ここはあの日から7年ずっとがんばり続けているんだ、忘れてしまっていてごめんと思った。
バスはそんなに大きくなかったけれど、客はまばらで、みんな少しずつ離れて席を占めた。運転手さんから、一通りの説明があったように思う。
バスにはガイガーカウンターが設置されているようで、車内の前方には、まるで案内板のように放射能の量を示す数値が液晶画面に表示されている。数値は常に上がり下がりしていて、ここが被爆地であることを否が応でも思い知らされた。
バスはゆっくり発車して、やがて国道6号線に入る。窓からは町並みが見える。
言い方が本当に悪いけれど、死んだ町並みだった。自然になくなったのではない、ある日突然終わりを告げられた町。いや、終わることさえ許されなかった町。何もかもそのままで、植物だけは繁茂して。
町の中身はそのままに、表面だけ時間の経過を表すように草や蔦が覆っていた。
崩れた家屋、割れたガラスの散らばるホームセンターやディーラーの正面、一方で、崩れていない建物の窓には白いカーテンがかかっていて、学習塾の看板が目の前を通り過ぎる。
道のそこかしこが蛇腹式のシャッターで塞がれ、「帰還困難区域」の大きな立て看板が添えられている。ここも、ここも、ここも。
汚染された土やがれきの詰まった黒い袋が積み上げられている。ここにも、ここにも、ここにも。
途中、視界が開けて、のっぺりとした更地が見える。コの字形の、石かコンクリートの壁だけがある。家を囲んでいたであろう石塀だと気づくけれど、その真ん中にあるべきものはない。
そんな景色を眺めながら、どうしようもなく泣けてきて、自分でも驚いた。いろんなものにひしゃげられた町の姿が眼前にあって、胸が苦しかった。
次第に町の様子が変わり、浪江駅に着いた。富岡駅を出発してから、およそ40分くらいだったろうか。まだ少ないかもしれないけれど、このあたりは新しい建物も建って、ちゃんと人が暮らす町だ。少しだけほっとした。バスを降りて再び常磐線に乗り、仙台へ向かった。
あのシャッターや看板は、いつ誰が設置したのか。あのおびただしい量の黒いフレコンバッグを、いつ誰が満たし、積み上げたのか。今さらになって思う。
あの放射線廃棄物のかたまりは、バスでも常磐線でもいろんなところで目にしたけれど、本当に整然と、きれいにきれいに積まれていた。それも、今さらになって思い出す。
常磐線は、2020年についに富岡-浪江間が開通し、全線復旧した。5年経って、あの場所は今どうなっているんだろうか。
あのバスはもう運行していないだろう。
忘れてはいけない、ずっと心にとどめておくべき景色だとは思いながらも、記憶は薄れつつある。それが昨日の深夜、ふとあの時のことを思い出したら、短歌になった。
私は短歌を詠むのが趣味だけど、あの旅ではあまり作れなかった。特にバスでのことは、当時一つも歌に残せていなかったと思う。
なぜ今になって急に詠めたのか不思議だ。それでも、5年越しでも、形に残せてよかった。
そうして、思い出せることだけでも書いておこうと思い、この文を書いている。
記憶がおぼろげな部分もあって、混同していたり思い違いをしていたりする部分もあるかもしれない。どれが当時感じたことでどれがあとから思ったことなのか、曖昧でもある。
けれど、書くことができてよかった。
稲穂の影を覚えているか
幾年も春待つ田には黒いフレコン
さらの地に石塀の痕(あと)ぽつねんと
そこには多分、家があった
カーテンのかかる窓際
さっきまで誰かがいたような七年後
蔦が絡んだショベルカー
何台も何台も頭垂れていた町
蔦が絡んだショベルカー
何台も何台も頭垂れていた町
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by sumi0313
| 2023-02-08 02:24
| おでかけ
会社の帰り道、地下鉄の入口のエスカレーターの付近で、カナブンがよく死んでいる。
おそらく、夜でも明るいのでそれに惹かれてやってきては踏み潰されているのだろう。
ひしゃげた死に姿が多い。
カナブンの持つ、走光性という言葉を思い出す。
それにしても、なぜここなのだろう。
おそらく、夜でも明るいのでそれに惹かれてやってきては踏み潰されているのだろう。
ひしゃげた死に姿が多い。
カナブンの持つ、走光性という言葉を思い出す。
それにしても、なぜここなのだろう。
夜明るい場所なんてそこら中にあるのに。
彼彼女らにとって、この場所は他よりもとりわけ魅力的なのだろうか。
なにか人間にはわからない、いやカナブンたちにとってもきっとわからない、呼び寄せられる素因があるに違いない。
なにか人間にはわからない、いやカナブンたちにとってもきっとわからない、呼び寄せられる素因があるに違いない。
プログラムが応答するようなコマンドが。
ふと思い至る。
ふと思い至る。
もしかすると、カナブンにとってのそれのように、人間にも否応なしに引き寄せられる場所があるのかもしれない。
あらがえなくて、どうしようもなく行ってしまって、そうした私たちのうちの少なくない数が何か大きなものに踏み潰されてひしゃげるような、そんな場所。
あらがえなくて、どうしようもなく行ってしまって、そうした私たちのうちの少なくない数が何か大きなものに踏み潰されてひしゃげるような、そんな場所。
多分きっと、意外とある。
そしてやはりカナブンたちのように、私たちもまたそれに気がつかないのだろう。
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by sumi0313
| 2022-08-24 22:13
| ひびおもう