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言葉を伝える練習帳。


by sumi
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読書会メモ:嵐が丘

二回目の読書会。
嵐が丘は学生時代に一度読んだきり、だいぶ中身を忘れてしまっていた。何か激しい感じだったよなーと思いながら読んだら、まあ確かにそうだった。

今回も本そのものを読んだだけで、ほとんど予備知識を入れぬまま参加したので、いろんな人の視点に加えて、作者の環境や背景、嵐が丘という作品が文学研究的にはどう捉えられているのかなど、そういう話も聞けて面白かった。

舞台はイギリス北部、風が吹きすさび荒涼とした丘が連なる田舎にある、アンショオ家とリントン家。
もともとはリントン家であったスラシクロス・グレンジに引っ越してきた若い男ロックウッドに、グレンジにもともといた家政婦のネリイから、アンショオ家、リントン家にまつわる長く嵐のような話を聞く、というのがこの物語の基本的な形式。
ネリイはその時々でアンショオ家であるワザリング・ハイツ、リントン家のスラシクロス・グレンジともに家政婦として働き、深く関わってきた。

アンショオ家の、美しいけれどわがままで気性の激しいキャサリン、キャサリンの父が偶然引き取ってきた、暗く卑屈な孤児ヒースクリフを中心に、両家の人物たちが約二世代に渡り実に激しく、密にぶつかり絡まりあう。
これは私の感想だけれど、10人程いる登場人物はほぼ全員性格に難ありで(生育の環境によるところも多いだろうが)、正直言って感情移入しづらかった。
それでも彼らのあまりに激しい言動に気圧されつつ、時に心の中でつっこみをいれながらも、目まぐるしく展開するストーリーについページをめくってしまう不思議な魅力のある物語だ。

ところで私は全く知らなかったのだけれど、文学評論?というか技法?において、この嵐が丘のネリイは「信頼できない語り手」と呼ばれる人物らしい。
なんとなくもやもやしていたのが、そのキーワードで腑に落ちた。
語り手が神の視点的な存在ではなく、登場人物の一人であるのなら、必ずその人物の主観というフィルターを通してその物語は語られることになる。その時点で、それはもはやありのままの出来事ではない。
フィクションの中のフィクション、虚構のなかの虚構。語り手を通してしか知れない以上、フィクションではあるがその物語の真実は、曖昧なままだ。
その二重構造が、まさにもやもやさせると共に面白さを掻き立てる所以なんじゃないだろうか。
すべてを明瞭に書ききってしまわず、読書に想像、推量の余地を大いに残す。意識的にするにせよ無意識的にするにせよ、それは物語を面白くするある種のテクニックだと思うけれど、この物語の構成は、そのテクニックの高度な亜種のような気がしてくる。
このネリイが「信頼できない語り手」であることを念頭においてもう一度読み返してみたら、またすごく面白そうだと思う。

ネリイの話す内容に主観的なバイアスがかかっていることを、たとえ「信頼できない語り手」という言葉を知らずともやはり感じるからか、ネリイをあまり好きになれないという声も多かった。
確かに、私も多少感じた。でも考えてみれば、「信頼できない語り手」、これはある意味とても人間的であるとも言えるんじゃないだろうか。
人が何かについて語るとき、主観からは決して逃げられないのだから、それはごく自然のことなのである。
人が何かの話を主観にしたがって語ることによる些細な歪曲の雰囲気、それを実に自然に書きあらわす(だからこそ読み手は不審を抱くのである)エミリ・ブロンテは改めてすごいような気がしてきた。
by sumi0313 | 2017-05-15 23:40 | ほんよみ