言葉を伝える練習帳。


by sumi0313
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カテゴリ:ほんよみ( 45 )

読書会メモ:嵐が丘

二回目の読書会。
嵐が丘は学生時代に一度読んだきり、だいぶ中身を忘れてしまっていた。何か激しい感じだったよなーと思いながら読んだら、まあ確かにそうだった。

今回も本そのものを読んだだけで、ほとんど予備知識を入れぬまま参加したので、いろんな人の視点に加えて、作者の環境や背景、嵐が丘という作品が文学研究的にはどう捉えられているのかなど、そういう話も聞けて面白かった。

舞台はイギリス北部、風が吹きすさび荒涼とした丘が連なる田舎にある、アンショオ家とリントン家。
もともとはリントン家であったスラシクロス・グレンジに引っ越してきた若い男ロックウッドに、グレンジにもともといた家政婦のネリイから、アンショオ家、リントン家にまつわる長く嵐のような話を聞く、というのがこの物語の基本的な形式。
ネリイはその時々でアンショオ家であるワザリング・ハイツ、リントン家のスラシクロス・グレンジともに家政婦として働き、深く関わってきた。

アンショオ家の、美しいけれどわがままで気性の激しいキャサリン、キャサリンの父が偶然引き取ってきた、暗く卑屈な孤児ヒースクリフを中心に、両家の人物たちが約二世代に渡り実に激しく、密にぶつかり絡まりあう。
これは私の感想だけれど、10人程いる登場人物はほぼ全員性格に難ありで(生育の環境によるところも多いだろうが)、正直言って感情移入しづらかった。
それでも彼らのあまりに激しい言動に気圧されつつ、時に心の中でつっこみをいれながらも、目まぐるしく展開するストーリーについページをめくってしまう不思議な魅力のある物語だ。

ところで私は全く知らなかったのだけれど、文学評論?というか技法?において、この嵐が丘のネリイは「信頼できない語り手」と呼ばれる人物らしい。
なんとなくもやもやしていたのが、そのキーワードで腑に落ちた。
語り手が神の視点的な存在ではなく、登場人物の一人であるのなら、必ずその人物の主観というフィルターを通してその物語は語られることになる。その時点で、それはもはやありのままの出来事ではない。
フィクションの中のフィクション、虚構のなかの虚構。語り手を通してしか知れない以上、フィクションではあるがその物語の真実は、曖昧なままだ。
その二重構造が、まさにもやもやさせると共に面白さを掻き立てる所以なんじゃないだろうか。
すべてを明瞭に書ききってしまわず、読書に想像、推量の余地を大いに残す。意識的にするにせよ無意識的にするにせよ、それは物語を面白くするある種のテクニックだと思うけれど、この物語の構成は、そのテクニックの高度な亜種のような気がしてくる。
このネリイが「信頼できない語り手」であることを念頭においてもう一度読み返してみたら、またすごく面白そうだと思う。

ネリイの話す内容に主観的なバイアスがかかっていることを、たとえ「信頼できない語り手」という言葉を知らずともやはり感じるからか、ネリイをあまり好きになれないという声も多かった。
確かに、私も多少感じた。でも考えてみれば、「信頼できない語り手」、これはある意味とても人間的であるとも言えるんじゃないだろうか。
人が何かについて語るとき、主観からは決して逃げられないのだから、それはごく自然のことなのである。
人が何かの話を主観にしたがって語ることによる些細な歪曲の雰囲気、それを実に自然に書きあらわす(だからこそ読み手は不審を抱くのである)エミリ・ブロンテは改めてすごいような気がしてきた。
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by sumi0313 | 2017-05-15 23:40 | ほんよみ | Comments(0)

かもめのジョナサン

「かもめのジョナサン」を読んだ。
調べてみると2014年に、第4章が新しく追加された完全版なるものが出ているらしいけれど、私が読んだのはそれ以前の、第3章までのもの。

ずいぶん前に初めて読んだときは、抱いていたイメージより哲学的な要素が多くて、後半部分はよく分からなかった。久しぶりに読んでみたら、昔より理解できたような気がする。理解はできたのだけれど、読んでいてちょっといらいらした。
なぜ私はいらいらするんだろう、有名で、多くの人に愛されている作品なのに。で、ちょっとそのいらいらの根っこについて考えてみた。

かもめのジョナサンは、食べることよりなにより飛ぶことが大好きで、飛ぶ技術を向上すべく、いつも食事もそっちのけでひとり練習ばかり。日々どうにか食べて生きていくことに汲々としている普通のかもめの群れでは異質な存在となり、ついに追放された彼は、孤独の中で飛ぶことの高みをひたすらに目指す。ある時、自分と同じような高度な飛行技術を持つかもめたちと出会い、彼はあらたな世界にいざなわれる。そこはジョナサンのように、飛ぶことをひたすらに追及して練習するかもめたちの世界で、ジョナサンは彼らから教わり、またのちには教えるようになり…というのがあらすじ。

当たり前のことだけど、この話は人間の世界のメタファーだ。
本来は、生きるという目的があって、そのうえで生きていくための手段がある。だが、日々生活する中で、個人的にも組織的にも馴れ親しんでしまった手段にしがみついて、その良し悪しを判断せず、それでいて苦しいと言いながら生き続ける。この話の中でのかもめの群れがそうで、この世に生きる多くの人々がそうで、私自身もそうだ。手段に支配されてしまって、目的がかすんでしまっている状態。

ジョナサンはそんな彼らを嫌う。ただ日々を漫然と食べていくことだけに費やすよりも、もっともっと大切なことがあるじゃないかとつぶやく。その態度の中に、どこか普通のかもめたちを軽蔑しているようなものを感じて、私はいらいらしてしまう。
これまた昔流行った「ソフィーの世界」を読みさして、途中でやめてしまったのを思い出す。その本でも、哲学しないものは愚かだ、というような(実際そうは書かれていないと思うが)どこか見下したニュアンスを感じてしまった。
私は考えること自体は好きだし、手段に支配されている今を少しずつでも変えたいと思っている。それでも、これらの本から漂う、哲学しないものへのかすかな軽侮と憐みの匂いがどうにも鼻につく。
考えなくたって、日々汲々としていたって、仕方がないじゃないか、そういう時期や、そういう人生だってある。それでも、人生においてはおそらく誰しもが、生きるということの意味に思いを寄せる瞬間が一度はあるはずだと思う。その思いには深さ浅さ、広さ狭さはあるかもしれないけれど、どんな形であれ、どうしたって人は考えてしまうものなんじゃないかと思う。なのに、ジョナサンたちは十把ひとからげにして、そんな彼らを見下げる。おそらくジョナサンたちは決してそんなつもりではないのかもしれないけれど、ごくごく主観的に、私は文章からそう受け取ってしまう。

食べることが生きることで、何が悪いのだろう。食べることは本当に大切なことなのに。
確かに、毎朝、人が投げる魚の餌を横取りしてぎゃあぎゃあと喚きながら、かもめ同士押し合いへし合いながら糊口をしのぐというのはスマートではない。ジョナサンのように飛行技術を高めさえすれば、より効率的に餌を取ることもできる。より善く生きることもとてもとても大事なことだけれど、「けれど」と私は思ってしまう。うまく生きられない存在を見下す必要など、ないような気がする。

話の後半、長老のかもめはジョナサンに、自らの身体という物理的な縛りがあり、自分には限界があるという認識を解き放つことを説く。鍛錬の末にジョナサンは瞬間移動を体得し、仲間のかもめを死から呼び戻すことすらやってのける。
瞬間移動とか死の超越とか、そのあたりになるとずいぶんと神話的な領分に入ってしまって、共感しづらくなるのは否めないが、彼らがしていることは、「飛ぶ」ことを徹底的に本質的に突き詰めていくことで、自らの存在を限りなく高めていく、つまり魂の年齢(というものがあるのであれば)を上げているということなのだろう。

彼らは実にまじめで、常に練習を欠かさない。技術を磨くために、幾度となく海面に叩きつけられても決して音を上げず、黙々と繰り返す。努力の権化のようなかもめたち。実に泥臭く鍛錬をしているはずなのだけれど、どこかそこに潔癖的な透明感がある。飛行技術、さらには魂の真なる向上という目的に一心に向かって、決して怠けず、その道を踏み外さない。仮に踏み外してしまいそうなときも、直ちに仲間や先達者の的確なフォローが入る。多分に理想的な性質であり環境であるが、そこに私はあたたかみを感じられない。雑音をすべて取り払ってしまったクリアな音は、美しいがどこか寒々しい。
完全に近づけば近づくほど、人間らしくあることの要素が失われていくのであろうか。そこまで思って、なんだか皮肉だなと思う。

ジョナサンは、ついには普通の群れの中に戻ってきて、彼らに自分たちの生き方を提示する。目の見えない、いまだ光の見えていない彼らを救おうとして。
苦しいことを無暗に背負い込んで、それにしがみついている必要はない。おそらく。自分の心が本当に求めることを追っていけばいい。きっとそうだろうと思う。そう教えてくれる存在があるというのは本当に心救われることだと思う。私自身、そういう存在にふれて、助けてもらって、生き直してみようと、思うこともある。
でもジョナサンには、私は救われない。

だらだらと書いてしまったけれど、つまるところ、弱いものへのあたたかい気持ちが感じられなくて、私はいらいらするのかもしれない。それはきっと、弱いもの、ひねているものだから持ってしまう一種の甘えだ。
強いひとや心まっすぐなひとはきっと、読むと気持ちが後押しされるような、本なのかもしれない。
次に読むときは、私はどんな風に受け止めるだろう。
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by sumi0313 | 2016-11-15 15:56 | ほんよみ | Comments(0)

グレート・ギャツビー

キルケゴールに手こずっている間に、青空文庫で「グレート・ギャツビー」読了。
始めてその題名を目にしてからもう20年近く経って、ようやく読めた。

時代は1920年代のアメリカ。
謎の大富豪ギャツビーの、はかなく切ない夢の実現と消失が、主人公ニックの視点を通して描かれている。

いつも思うけど、あらすじって書くと陳腐な感じになってしまうな。
実際、私も大昔に本の背表紙に書かれたあらすじだけ読んで、あまり興味を持てなかったら今まで読んでいなかったんだと思う。
今更ながら興味を持ったきっかけは、少し前に見た「ミッドナイト・イン・パリ」という映画に、作家のフィツジェラルドが出ていたから。
主人公たちはちょうど30代前後で、読むタイミング的に良かったような気がする。

今まで「ギャツビー」という人物に抱いていたのは、アメリカらしさが具現化されたような存在、つまり男らしい、肉体的な意味だけでなくマッチョであるというイメージだったけれど、読んでみるとだいぶ違った。
彼はピンクのスーツ(イメージが具体的にわかないけれど)を颯爽と着こなして、大豪邸に住み、物腰穏やかで丁寧だが少し堅い話口調の、30過ぎの男。
パーティーを開いては、誰彼かまわず押し掛けるのをむかい入れる、素性のはっきりしない男。
だけど、その内側には彼にとってのただひとつの夢が、焔のように燃えている。
それはそれは危ういほどの強さで。

人の持つ、夢は両刃の剣だ。
それは人をとても強くしうるけれど、時にあっけなく潰えてしまう。
その望みがいかに強くても関係ない。
手に入らないものはどうしたって入らない時がある。
人に夢、と書いて儚いと読むけれど、まさしくそんな事を思わせる本だった。

また読み返したいな。今度は紙の本で。
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by sumi0313 | 2016-02-04 16:31 | ほんよみ | Comments(0)

火花

ブックレビューなんて、いつぶりだろう?
ピース又吉の「火花」を同僚から借りて読んだ。

お笑いに対する感性があまり鋭くないからか、徳永と神谷のやりとりがあんまりぴんとこなくて、前半は正直読み進み辛かったな…目がすべるというか。
時折、心にかする表現はあったけれども。

後半というか、終盤は読んでいて心がきりきりした。
神谷の人並外れた「面白いこと」に対する感受性と、それを自分の人生において第一とする信念の強さ、行動力。
それによって形作られる彼の人生は、もう真っ当な(と世間によって定義される)人間のそれとは正反対であり、そんな彼に強く憧れながらも「普通」の人間の域を出ることができない徳永。
その二人が久しぶりに会って飲み屋でする会話は、とても痛々しい。

私は徳永側の人間だけど、神谷の「面白いこと」を追求せずにはいられない心というか、本能のようなものが、 この世界で生きていくには、あまりにも純真過ぎて、 なんとなくいじらしい。

花火に始まり、花火で終わるのは、なんだか良かった。
救いがあるんだかないんだか、よくわからない感じではあるけれど。

また読み返したいとは思わなかったけど、人の根っこのような部分に確かに肉薄しているような気がする。
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by sumi0313 | 2016-01-06 01:35 | ほんよみ | Comments(0)

鈍化

久しぶりに「人間失格」を読んだ。

もう何回読んだかわからないけれど、読むたびに受ける感じが違う。

昔読んだ頃よりも、ぐらり、と来ない。
共感というか、共鳴できる部分や、共鳴の仕方が違っているように思う。
だから読んでも、特に落ち込んだりしなかった。
良くも悪くも鈍くなったんだろうな。
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by sumi0313 | 2016-01-05 00:44 | ほんよみ | Comments(0)

百年の孤独

ガルシア・マルケス
『百年の孤独』

焼酎じゃないですよ。
本ですよ。

初めてその本の名前を聞いてから7年?
ようやく読むことができた。

結果、大満足。
うぁー、面白かった。
って声に出るくらい、面白かった。
この作家のは短編を一冊、それに他の長編を一冊、
それぞれ読んでいたのだけれど、一番好きかも…。
文庫で出てないのが悲しい。

お話は、南米のとある小村マコンドで、ホセ・アルカディオ・ブエンディアから始まる
ブエンディア一族の始まりから終わりまでが描かれている。
この一族(とその周辺)が全員もれなく強烈なキャラクターで、
錬金術に没頭したり、
革命を起こしに村を飛び出したり、
恐ろしく長生きだったり、
文字通り昇天したり、
息子が17人もいたり、
幽霊になって庭の木の下でずぶ濡れになって暮らしてたり、
…なんかこうやって書くとまぁ陳腐な感じがするけど。
しかも大抵息子に同じ名前をつけるもんだから、
アルカディオだの、
アウレリャノだの、
ホセ・アルカディオだの、
アルカディオ・セグンドだの、
アウレリャノ・セグンドだの…
そんな登場人物たちが何世代も一緒に、
大きな家にひしめきあって騒ぎを起こし続ける。
個人的にはアウレリャノ・ブエンディア大佐てウルスラ(初代)が好きだったな。
でまたこの家が、大改装されるかと思えば草がはびこって荒れ果てたり、
あるいは庭が全部掘り起こされたりと、
人物たちが生まれては死んでいく中で有機的にめまぐるしく変化していく。

夢と現実が奇妙に混じり合ったような感覚が始めから終わりまでついて回る。
これがまたたまらないんだぁ…
ラストも、一族の興亡というスケールの大きさにふさわしい終わり方。

いやー、これは、やっぱり名作だわ。
久しぶりに時間を忘れて読んだよ。
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by sumi0313 | 2009-12-16 20:56 | ほんよみ | Comments(0)
珍しく、ジャケ買いならぬタイトル買いをしてしまった。

『トリストラム・シャンディ』。
なんかいいひびきだなー引っかかるなーって個人的にかなり気に入って、このタイトルだけで買ってしまった。
ちなみに主人公(語り手)の名前なんだそうで。

書店の棚で見つけて、「あ」と思って、でもそのときはまだ『レ・ミゼラブル』の序盤だったから、買うのを我慢していた。
先週末、ようやく購入。

で、まずどんな本なのか、紹介部分を読んでみたけどよく分からない。
最初の訳者まえがきみたいなのを読んで、どうやらよく分からない感じの本らしい、ということだけ、ちょっと分かった。
話が脱線しまくったり、真っ黒く塗りつぶされたページがあったり、なんというか不思議な作品らしい。

読み始めてみたら本当にその通りだった。

トリストラム・シャンディ、かなりの曲者…
100ページくらい読んだけど、自分の生涯と意見について語るのに、自分が産まれるとこの説明までもいっていない…てかまだ産まれる気配がない…

今回はががーっと勢い付けて読むんじゃなしに気長にのんびり、読んでいこうっと。
まあ断続的に読んでると、それはそれで今なんの話が脱線してこの話になってるのかとか、分からなくなりそうだけどね。。
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by sumi0313 | 2009-02-20 02:48 | ほんよみ | Comments(0)

『レ・ミゼラブル』読了

ようやく先週、『レ・ミゼラブル』全五巻を読了。
すごく長い作品だったけど、あの長さは必要だったというか、それだけ長く描かれていることによる感動の大きさがあった。
そこは、短編にはない良さなんだよね。

最近、外国文学を読んでいて悔しいことが、世界史がほとんどわからなくてその世界観や感覚がうまくつかめないこと。
この作品もそうだし、『戦争と平和』や『赤と黒』なんかもそう思いながら読んでいた。
主人公や登場人物、そしてその後ろにいる作者の考え方、思想なんかはその歴史を抜きにして理解などできないから、きっと私はかなり損をしているんだと思う。

まあ、そういうちょっと残念な思いはありつつだけど、この作品を読みながら、そして読み終えて「良心」という概念を改めてきちんと考えさせられる気がした。
自分の良心と向き合う、良心を見つめるということって、久しく忘れてしまっていたように思う。
自分の良心をごまかして安穏として生きるか、地獄のような状況になろうとも良心に従うか、この選択で、主人公ジャン・ヴァルジャンは何度も苦しむ。
けれど彼は結局、良心(と神)に従わずにはいられず、自ら辛い道を選んで生きていく。

こんな生き方、今の日本じゃ流行らないよなあ、と思ってしまったけど、その後すぐ、でもこれは流行る流行らないの問題じゃないな、と思い直した。
彼のようにはおそらくなれないけれど、もう少しだけ、すっかり忘れてた自分の良心を大事にしていきたいな。
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by sumi0313 | 2009-02-19 02:14 | ほんよみ | Comments(0)

『五輪書』宮本武蔵

長編の合間に、一冊読んだのがこの本。
『五輪書(ごりんのしょ)』は江戸時代の無敗の剣豪、宮本武蔵が書いた兵法の書。
生涯独りで生き、武芸の道を究めた武蔵が、亡くなる直前に自分が確立した二天一流について書き留めたものだ。

この時はこうしろ、という実際的な戦いの指南が中心だけれど、心構えというか、気持ちの持ちようについても述べられていて、それは戦いだけでなく仕事においてとか、日常のいろいろな場面にも参考になるなあ、と読んでいて思った。

たとえば有構無構(うこうむこう)という考え方。
戦いにおいては太刀を持って相手に対するのが当たり前で、まあその対し方とか太刀の持ち方をもって「構(かまえ)」というんだけど、武蔵は、構えはあってないものである、と説いている。
もちろん構えというのは、剣術の基本でもあり、大切なことだけど、同時に、心で「しっかり構えよう」と強く思いすぎては戦いにおいて受身の態勢になってしまう。
常に相手の不意や隙をついて先手を取ることが勝利につながると言う武蔵は、受身になってしまうことを戒めている。
だから、構えはあってないもの、構えにとらわれずに常に自然な状態でその瞬間瞬間に最適な動きをすることが大切なのである…という感じ。
何かにとらわれすぎず、心の平静を保ち、柔軟に動くことは、何においても大事なことだと思う。

武蔵のアドバイスの最後は、「能々(よくよく)吟味あるべし」「能々工夫あるべきもの也」といった言葉でほとんど締めくくられている。
なんというか、結局はこのフレーズがすべてを物語っているのかなあ、という気もする。
指南はあくまでも指南であって、それを自分のものにできるかどうかは結局は毎日の欠かせない鍛錬にあるんだろう。

自分の日々の仕事においても、「能々吟味」していかなければ…と思ったのでした。
まあ、その部分読んだその日にミスしたりしてるんだけどね。。
千里の道も一歩から、って武蔵も言ってるし、こつこつがんばってこっと。
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by sumi0313 | 2009-02-04 23:48 | ほんよみ | Comments(0)
『レ・ミゼラブル』を読んでいる。一巻目が終了したところ。
二巻目以降はまだ買ってないんだけど…

日本語の、『ああ無情』のタイトルの方が有名かな。
まだ一巻だけだけど、なんというか、悲しい波と幸せの波が交互にがつーんと来て、ストーリーにぐいぐい引き込まれてしまった。

主人公はジャン・ヴァルジャン。
若いころパンひとつ盗んで、監獄に入れられ、
脱獄の試みを繰り返した結果19年間も服役していた男。
ようやく出獄できたけれど、町で宿とご飯を得ようとしても、もと罪人の彼は誰からも拒絶されてしまう。
そんなとき、たまたま彼はその町の司教の家に立ち寄る。

…というのが物語の始まり。
(といっても、その前にその司教についての説明部分がかなりあるけれど)

古い作品だけど、わりとわかりやすくて読みやすい気がする。
ちょっとした運命のはずみで、自分ではどうしようもなく人生から転落させられ、社会につぶされてしまう人々、というのは、今も昔も変わらず存在する。
だから、舞台は19世紀はじめのフランスだけど、そこで描かれる人々の苦労・悲しみ・悲惨さ、そして喜びや幸福が生々しく感じられるんだろうか。

あと四巻くらい?あった気がするけれど、この先ジャン・ヴァルジャンはどうなっていくんだろう。

ちなみに先日、仕事終わりに終電の中でこの本読んでて、降りる駅を乗り過ごした。
うかつであった。。
タクシー乗るお金はあったけど、なんとなーく1時間半くらい歩いて帰った。
意外と気分が乗ってたら、歩けるもんだね…
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by sumi0313 | 2009-01-16 11:48 | ほんよみ | Comments(0)