言葉を伝える練習帳。


by sumi
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かもめのジョナサン

「かもめのジョナサン」を読んだ。
調べてみると2014年に、第4章が新しく追加された完全版なるものが出ているらしいけれど、私が読んだのはそれ以前の、第3章までのもの。

ずいぶん前に初めて読んだときは、抱いていたイメージより哲学的な要素が多くて、後半部分はよく分からなかった。久しぶりに読んでみたら、昔より理解できたような気がする。理解はできたのだけれど、読んでいてちょっといらいらした。
なぜ私はいらいらするんだろう、有名で、多くの人に愛されている作品なのに。で、ちょっとそのいらいらの根っこについて考えてみた。

かもめのジョナサンは、食べることよりなにより飛ぶことが大好きで、飛ぶ技術を向上すべく、いつも食事もそっちのけでひとり練習ばかり。日々どうにか食べて生きていくことに汲々としている普通のかもめの群れでは異質な存在となり、ついに追放された彼は、孤独の中で飛ぶことの高みをひたすらに目指す。ある時、自分と同じような高度な飛行技術を持つかもめたちと出会い、彼はあらたな世界にいざなわれる。そこはジョナサンのように、飛ぶことをひたすらに追及して練習するかもめたちの世界で、ジョナサンは彼らから教わり、またのちには教えるようになり…というのがあらすじ。

当たり前のことだけど、この話は人間の世界のメタファーだ。
本来は、生きるという目的があって、そのうえで生きていくための手段がある。だが、日々生活する中で、個人的にも組織的にも馴れ親しんでしまった手段にしがみついて、その良し悪しを判断せず、それでいて苦しいと言いながら生き続ける。この話の中でのかもめの群れがそうで、この世に生きる多くの人々がそうで、私自身もそうだ。手段に支配されてしまって、目的がかすんでしまっている状態。

ジョナサンはそんな彼らを嫌う。ただ日々を漫然と食べていくことだけに費やすよりも、もっともっと大切なことがあるじゃないかとつぶやく。その態度の中に、どこか普通のかもめたちを軽蔑しているようなものを感じて、私はいらいらしてしまう。
これまた昔流行った「ソフィーの世界」を読みさして、途中でやめてしまったのを思い出す。その本でも、哲学しないものは愚かだ、というような(実際そうは書かれていないと思うが)どこか見下したニュアンスを感じてしまった。
私は考えること自体は好きだし、手段に支配されている今を少しずつでも変えたいと思っている。それでも、これらの本から漂う、哲学しないものへのかすかな軽侮と憐みの匂いがどうにも鼻につく。
考えなくたって、日々汲々としていたって、仕方がないじゃないか、そういう時期や、そういう人生だってある。それでも、人生においてはおそらく誰しもが、生きるということの意味に思いを寄せる瞬間が一度はあるはずだと思う。その思いには深さ浅さ、広さ狭さはあるかもしれないけれど、どんな形であれ、どうしたって人は考えてしまうものなんじゃないかと思う。なのに、ジョナサンたちは十把ひとからげにして、そんな彼らを見下げる。おそらくジョナサンたちは決してそんなつもりではないのかもしれないけれど、ごくごく主観的に、私は文章からそう受け取ってしまう。

食べることが生きることで、何が悪いのだろう。食べることは本当に大切なことなのに。
確かに、毎朝、人が投げる魚の餌を横取りしてぎゃあぎゃあと喚きながら、かもめ同士押し合いへし合いながら糊口をしのぐというのはスマートではない。ジョナサンのように飛行技術を高めさえすれば、より効率的に餌を取ることもできる。より善く生きることもとてもとても大事なことだけれど、「けれど」と私は思ってしまう。うまく生きられない存在を見下す必要など、ないような気がする。

話の後半、長老のかもめはジョナサンに、自らの身体という物理的な縛りがあり、自分には限界があるという認識を解き放つことを説く。鍛錬の末にジョナサンは瞬間移動を体得し、仲間のかもめを死から呼び戻すことすらやってのける。
瞬間移動とか死の超越とか、そのあたりになるとずいぶんと神話的な領分に入ってしまって、共感しづらくなるのは否めないが、彼らがしていることは、「飛ぶ」ことを徹底的に本質的に突き詰めていくことで、自らの存在を限りなく高めていく、つまり魂の年齢(というものがあるのであれば)を上げているということなのだろう。

彼らは実にまじめで、常に練習を欠かさない。技術を磨くために、幾度となく海面に叩きつけられても決して音を上げず、黙々と繰り返す。努力の権化のようなかもめたち。実に泥臭く鍛錬をしているはずなのだけれど、どこかそこに潔癖的な透明感がある。飛行技術、さらには魂の真なる向上という目的に一心に向かって、決して怠けず、その道を踏み外さない。仮に踏み外してしまいそうなときも、直ちに仲間や先達者の的確なフォローが入る。多分に理想的な性質であり環境であるが、そこに私はあたたかみを感じられない。雑音をすべて取り払ってしまったクリアな音は、美しいがどこか寒々しい。
完全に近づけば近づくほど、人間らしくあることの要素が失われていくのであろうか。そこまで思って、なんだか皮肉だなと思う。

ジョナサンは、ついには普通の群れの中に戻ってきて、彼らに自分たちの生き方を提示する。目の見えない、いまだ光の見えていない彼らを救おうとして。
苦しいことを無暗に背負い込んで、それにしがみついている必要はない。おそらく。自分の心が本当に求めることを追っていけばいい。きっとそうだろうと思う。そう教えてくれる存在があるというのは本当に心救われることだと思う。私自身、そういう存在にふれて、助けてもらって、生き直してみようと、思うこともある。
でもジョナサンには、私は救われない。

だらだらと書いてしまったけれど、つまるところ、弱いものへのあたたかい気持ちが感じられなくて、私はいらいらするのかもしれない。それはきっと、弱いもの、ひねているものだから持ってしまう一種の甘えだ。
強いひとや心まっすぐなひとはきっと、読むと気持ちが後押しされるような、本なのかもしれない。
次に読むときは、私はどんな風に受け止めるだろう。
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by sumi0313 | 2016-11-15 15:56 | ほんよみ