言葉を伝える練習帳。


by sumi
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

かもめのジョナサン

「かもめのジョナサン」を読んだ。
調べてみると2014年に、第4章が新しく追加された完全版なるものが出ているらしいけれど、私が読んだのはそれ以前の、第3章までのもの。

ずいぶん前に初めて読んだときは、抱いていたイメージより哲学的な要素が多くて、後半部分はよく分からなかった。久しぶりに読んでみたら、昔より理解できたような気がする。理解はできたのだけれど、読んでいてちょっといらいらした。
なぜ私はいらいらするんだろう、有名で、多くの人に愛されている作品なのに。で、ちょっとそのいらいらの根っこについて考えてみた。

かもめのジョナサンは、食べることよりなにより飛ぶことが大好きで、飛ぶ技術を向上すべく、いつも食事もそっちのけでひとり練習ばかり。日々どうにか食べて生きていくことに汲々としている普通のかもめの群れでは異質な存在となり、ついに追放された彼は、孤独の中で飛ぶことの高みをひたすらに目指す。ある時、自分と同じような高度な飛行技術を持つかもめたちと出会い、彼はあらたな世界にいざなわれる。そこはジョナサンのように、飛ぶことをひたすらに追及して練習するかもめたちの世界で、ジョナサンは彼らから教わり、またのちには教えるようになり…というのがあらすじ。

当たり前のことだけど、この話は人間の世界のメタファーだ。
本来は、生きるという目的があって、そのうえで生きていくための手段がある。だが、日々生活する中で、個人的にも組織的にも馴れ親しんでしまった手段にしがみついて、その良し悪しを判断せず、それでいて苦しいと言いながら生き続ける。この話の中でのかもめの群れがそうで、この世に生きる多くの人々がそうで、私自身もそうだ。手段に支配されてしまって、目的がかすんでしまっている状態。

ジョナサンはそんな彼らを嫌う。ただ日々を漫然と食べていくことだけに費やすよりも、もっともっと大切なことがあるじゃないかとつぶやく。その態度の中に、どこか普通のかもめたちを軽蔑しているようなものを感じて、私はいらいらしてしまう。
これまた昔流行った「ソフィーの世界」を読みさして、途中でやめてしまったのを思い出す。その本でも、哲学しないものは愚かだ、というような(実際そうは書かれていないと思うが)どこか見下したニュアンスを感じてしまった。
私は考えること自体は好きだし、手段に支配されている今を少しずつでも変えたいと思っている。それでも、これらの本から漂う、哲学しないものへのかすかな軽侮と憐みの匂いがどうにも鼻につく。
考えなくたって、日々汲々としていたって、仕方がないじゃないか、そういう時期や、そういう人生だってある。それでも、人生においてはおそらく誰しもが、生きるということの意味に思いを寄せる瞬間が一度はあるはずだと思う。その思いには深さ浅さ、広さ狭さはあるかもしれないけれど、どんな形であれ、どうしたって人は考えてしまうものなんじゃないかと思う。なのに、ジョナサンたちは十把ひとからげにして、そんな彼らを見下げる。おそらくジョナサンたちは決してそんなつもりではないのかもしれないけれど、ごくごく主観的に、私は文章からそう受け取ってしまう。

食べることが生きることで、何が悪いのだろう。食べることは本当に大切なことなのに。
確かに、毎朝、人が投げる魚の餌を横取りしてぎゃあぎゃあと喚きながら、かもめ同士押し合いへし合いながら糊口をしのぐというのはスマートではない。ジョナサンのように飛行技術を高めさえすれば、より効率的に餌を取ることもできる。より善く生きることもとてもとても大事なことだけれど、「けれど」と私は思ってしまう。うまく生きられない存在を見下す必要など、ないような気がする。

話の後半、長老のかもめはジョナサンに、自らの身体という物理的な縛りがあり、自分には限界があるという認識を解き放つことを説く。鍛錬の末にジョナサンは瞬間移動を体得し、仲間のかもめを死から呼び戻すことすらやってのける。
瞬間移動とか死の超越とか、そのあたりになるとずいぶんと神話的な領分に入ってしまって、共感しづらくなるのは否めないが、彼らがしていることは、「飛ぶ」ことを徹底的に本質的に突き詰めていくことで、自らの存在を限りなく高めていく、つまり魂の年齢(というものがあるのであれば)を上げているということなのだろう。

彼らは実にまじめで、常に練習を欠かさない。技術を磨くために、幾度となく海面に叩きつけられても決して音を上げず、黙々と繰り返す。努力の権化のようなかもめたち。実に泥臭く鍛錬をしているはずなのだけれど、どこかそこに潔癖的な透明感がある。飛行技術、さらには魂の真なる向上という目的に一心に向かって、決して怠けず、その道を踏み外さない。仮に踏み外してしまいそうなときも、直ちに仲間や先達者の的確なフォローが入る。多分に理想的な性質であり環境であるが、そこに私はあたたかみを感じられない。雑音をすべて取り払ってしまったクリアな音は、美しいがどこか寒々しい。
完全に近づけば近づくほど、人間らしくあることの要素が失われていくのであろうか。そこまで思って、なんだか皮肉だなと思う。

ジョナサンは、ついには普通の群れの中に戻ってきて、彼らに自分たちの生き方を提示する。目の見えない、いまだ光の見えていない彼らを救おうとして。
苦しいことを無暗に背負い込んで、それにしがみついている必要はない。おそらく。自分の心が本当に求めることを追っていけばいい。きっとそうだろうと思う。そう教えてくれる存在があるというのは本当に心救われることだと思う。私自身、そういう存在にふれて、助けてもらって、生き直してみようと、思うこともある。
でもジョナサンには、私は救われない。

だらだらと書いてしまったけれど、つまるところ、弱いものへのあたたかい気持ちが感じられなくて、私はいらいらするのかもしれない。それはきっと、弱いもの、ひねているものだから持ってしまう一種の甘えだ。
強いひとや心まっすぐなひとはきっと、読むと気持ちが後押しされるような、本なのかもしれない。
次に読むときは、私はどんな風に受け止めるだろう。
[PR]
# by sumi0313 | 2016-11-15 15:56 | ほんよみ

シン・ゴジラ

映画「シン・ゴジラ」を観た。
恐い映画だった。

私があまり日本を舞台にしたリアルなパニック映画を観ていないせいもあるのかもしれないけれど、知っている光景が、私が過去そこを歩いていた場所が、ものすごい勢いで崩壊していくのを目の当たりにして、恐怖した。
秩序の崩壊、物理的な崩壊、つまりは日常の、自分が生きている世界の崩壊を感じてしまって恐ろしかった。
夜の街で、ゴジラが苦しそうに火を吐いているのを見て、かすかに絶望すらした。

見る前までは、エヴァンゲリオンの庵野監督とゴジラがうまく結び付かなかった。
私のゴジラのイメージが、特撮の怪獣映画、というものしかなかったから。
でも観てみたら、監督の中でのテーマというか、描きたいことはエヴァと共通しているのだと思った。

この映画におけるゴジラというのは「突如襲いかかる得体の知れない、とてつもなく大きな脅威」の象徴、権化だ。
エヴァでいえば使徒。
それを目前にした人々はただ恐怖し、逃げ惑う。
それでもなんとかその脅威に立ち向かおうと、人は集まり議論し、対立したり協力したりしながら、手だてを考え実行しようとする。
その過程や結果において、普段の状況では起こり得ないパワーが生まれてくる。
脅威に晒された人間の集合から生まれる、粗雑で危うくはあるけれど、確かな力。
あの人はそれを描きたいのかな、と思った。

そして、その脅威が生まれてしまったことにも実は人が関与しているという、人類の業の深さ。
最後のワンカットで、それを投げ掛けて映画は終わる。
私の勝手な解釈だけれど、いろんな意味で、恐ろしい、面白い映画だったな。

ゴジラや使徒は、おそらく現実には現れない。
でもそれの意味するところは、例えば災害やテロにも置き換えられる。
いつか私の目の前で、世界がゴジラ的な何かでひしゃげてしまった時、果たしてどうなってしまうんだろう。

展開が早くて難しい言葉もあるから、細かなところで見逃してるところも多々ありそう。
上に書いたこと以外にも、組織が存在することの意義とか、日米の関係とか、考えさせられるところがたくさん。
もう一度見たいなあと思った。
[PR]
# by sumi0313 | 2016-10-05 16:48 | えいが

ひとり

ひとりの休日。
気が向いたので、いつもよりしっかりお化粧して、髪も巻いて、外に出た。
でも行った先は、携帯ショップと100均とドラッグストア。
遅いお昼ご飯はウェンディーズ。
このあと、泳ぎに行こうか考え中。
さして彩りもない内容なのだけど、それでも意外と、悪くない。

当たり前だけどひとりの時って、全部ひとりで判断して行動する。
何を買うとか、このあと何をするとか、ご飯はどこで食べるとか。
細かいことなんだけど、自分で自分のことを判断して行動するって、楽しい。
楽しいと思うということはつまり、いつもは細かいことを無意識に人任せにしてしまって、私はどうしたいのか、あまり考えていないんだと思う。

別に普段はそれでいいと思っているし、そもそもあまり気にすることもない。
それでもこういう時、自分のためだけに考えて行動していると、小さいけれど奇妙な充足感がある。
ひとりの時にもう少し練習して、誰かといても、もう少し自分で判断していろんなことが行動できるといいなあ。
[PR]
# by sumi0313 | 2016-09-25 15:20 | ひびおもう

幸せの画家

もうすぐ終わりそうだったので、国立新美術館のルノワール展に行った。

幸せの画家、と呼ばれていることを観ている途中で知って、納得。
本当に筆致が柔らかくてやさしくて、輪郭が周囲と溶けあって混ざりあっていて、眺めていると気持ちがほぐされた。

やっぱり目玉は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」。
作品自体大きさがあって、インパクトがある。
木漏れ日が人々の帽子や服に当たっている表現が、昔美術の教科書で見たときから好きだった。
「桟敷席に置かれたブーケ」は、匂い立つような立体感があって、すごく気に入った。
「ピアノを弾く少女たち」は、今にも彼女たちがこちらを振り向きそうな気がするくらい、何気ないやわらかな日常のリアリティがある。
あと全体的に女の人たちの、肘から手にかけてのラインがつややかで美しかった。

同じようなモチーフでも、人によってそこから汲み取るものは全く違うのだなと、当たり前なんだけどまざまざと感じさせられた。
この人は自分の中の苦しみや悲しみを対象に投影するのではなしに、その対象からやわらかさややさしさ、あたたかみ、言ってしまえば愛のようなものを見いだしすくいあげて、形にしているのだろう。
もちろん、どちらがいいとか悪いとかではないんだけれど、苦しみや怒りといった負の感情を研ぎすませて表出させる創造だけでなく、それを抱えてなお喜びや幸せといったものに昇華させる創造というのは、自分のなかでのひとつの課題になりそうだと思った。
[PR]
# by sumi0313 | 2016-08-17 02:22 | おでかけ

帰京の中途

久しぶりの帰省から東京に戻る新幹線。
デッキに出たついでに、ドアのところから少し外を眺めてみた。

もう疾っくに日は暮れていたから、見えるのは黒を基調としたかすかな濃淡の景色だけ。
田んぼなのか丘なのかわからない手前の地面のシルエットと、遠くで見える少ない灯り。
時折の、車とおぼしき影。
田舎の一部分を切り取りながら、それらがもの凄い速さで通り過ぎていく。

少しだけ、こわい気持ちがした。
ごうごうと音を立てて暗闇の中を走る新幹線は、外側からどんな風に見えているんだろうと、気になった。
いつもは考えもしないのに、自分がコントロールすることの到底できない速度の支配下にあるという状況を、妙に意識してしまった。
疾走する金属製の箱に入って、とりあえず身体だけ運ばれている、なんだかそんな感じがした。
猛烈に過ぎ去り続けるあの真っ暗な景色を見た時に、心が少し置いていかれた。
[PR]
# by sumi0313 | 2016-08-15 21:49 | おでかけ