言葉を伝える練習帳。


by sumi
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【詩】かたち

うつくしいもの
すばらしいもの
すてきなもの
いや
そんな言葉では言い表せぬもの

そんなものに触れる瞬間がある

そうして
ああ、と
心の中で
あるいは声に出して嘆息するとき

私のどこかが抉られている
その嘆息した対象によって
私の一部が抉られ奪われて傷となる

傷口がしっとりと透明な体液で覆われ
やがて新たな細胞たちが生まれ来る
それらが赤子のようにふっくらとしてくる頃
私は以前と異なるかたちをしている

きもちがあふれる
こころがふるえる
むねがいっぱいになる

いや
そんな言葉では言い表せぬことに相対したとき

ああ、と
浅く深く
長く短く
息をつくたび
百億色の虹のような爪が私を抉り
私は私のかたちを変え続ける
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by sumi0313 | 2017-12-17 02:18 | ことばづくり
小津安二郎の「東京物語」を観た。
以下、ネタバレありです。


広島は尾道に暮らす老夫婦が、東京で暮らす子どもたちに会いに遠路はるばるやってくる。
既に二人の子をもうけ、町医者として忙しい毎日の長男幸一。美容室を夫と切り盛りしている長女志げ。
彼らは最初は喜んで迎えるものの、両親の逗留が続くにつれ、次第にやっかいに思うようになり、扱いがぞんざいになっていく。
そんな中で、戦争で亡くなった次男の嫁・紀子だけがあたたかく二人に接していたが…

物語が実に淡々と進む中で、「去る者は日々に疎し」という言葉を思い出す。
過去人生において大切なつながりを持っていた人、たとえ血のつながった親子でさえ、しばらく離れて各々の生活をしていると、どちらか一方が急に近づいたとき、そしてその近づきがいっときを超えてしまったとき、疎ましく感じてしまう。
舞台は戦後間もなくの頃、私には随分前のように思えてしまうけれど、そこで描かれているテーマが抱えるかなしさは色褪せず、むしろ強いリアリティを以て私に迫る。

実子に厄介払いされるように、熱海の温泉宿をあてがわれて泊まる老夫婦。安いからか若者が多く、夜もどんちゃん騒ぎでろくに眠れない。
予定を切り上げて早めに広島に帰ろうと、翌日東京に戻ると「もっとゆっくりしてくればよかったのに」と言われ、もはやその日泊まる場所もままならない。
上野公園で時間をつぶし、妻は紀子のアパートに、夫は久しぶりに会う同郷の知人を訪ねて泊めてもらうべく、別れる。
そんな中、二人は決して怒るわけでなく、深くかなしむわけでなく、ただ一抹の寂しさをぽつぽつと短い会話の中に滲ませるだけだ。観ていて心が苦しくなった。
唯一、仕事がある中でも折を見て二人にあたたかく接する紀子が少しの救いだった。

でも、紀子はどうして、かいがいしく二人を世話するのだろう。
夫はだいぶ前に亡くなり、姻族ではあるものの、直接的なつながりはほとんどないのに。
ニコニコと笑みを絶やさず、老夫婦を東京案内に連れ出したり、行き場がなくなってやむなくアパートに来た義母を快く泊めたり、お小遣いを渡したり、またぜひいらしてと温かい言葉をかける紀子。
他の人物がどういう感情を抱えているのかは何となく分かったけれど、なぜだか彼女の気持ちだけはずっと見えてこなくて、引っ掛かっていた。 
ただ、アパートに泊めてもらった義母がひとしきり彼女に感謝したあと、紀子が部屋の電気を消す直前に、彼女の笑みがふっと消えた。それが妙に印象的だった。

終盤、義父に向かって紀子はようやく心情を吐露する。
「わたくし猾いんです」という言葉に続けて、彼女は亡くなった夫を自分が忘れつつあることを語る。
彼女の中で、それはやましいことであり、そうあるべきではないという思いと、それでもこの先ずっとひとりで生きていくことを怖れる気持ちとが同居していることが分かる。
おそらく、死んだ夫を忘れてはならないとの思いから、彼女は義両親にことさら世話を焼いていた、ということなのだと思う。
完全に義両親のことを思いやってのことではなく、自分本位の思いが混じっていたから「猾い」んだと自分を形容する。
その本心を、旅行後に急逝してしまった義母には最後まで言えなかったことも含め。
状況や立場は全く違うけれど、なんだか紀子の気持ちに共感するものがあった。
ようやく彼女の本当の気持ちが、分かってうれしかった。

彼女の懺悔には、義父のあたたかい許しがあった。許し、と書いたけれど、別に現実には許されないことをしたわけではない。
だが、彼女の中ではそれが自分では許せないことであり、そして、それを分かるからこそ義父は「いいんだよ」と、許しの言葉をかける。
夫が亡くなって八年という時間が経ってようやく、紀子は自身を縛っていたものから解放されたんじゃないかと思う。

そんな紀子と対照的な、両親に冷たいとも見える態度を取る兄妹。彼らは決して悪人ではない、ごく普通の人である。
母が亡くなった時にはひどく泣いていた娘の志げだが、葬儀が済んだ後の会食の席で、母のあの帯を形見にちょうだいと、さらりと言ってのける。時として人はそういうものであり、あくまで母の死を越えてなお続く日常を見据えたしたたかさを感じる。
彼女も、悲しくないわけではないのだ。その悲しみの表現の仕方と、相対する仕方がたまたまそういう形であるに過ぎないだけで。

映画の中では、「仕様がない」という言葉が多く出てくる。
老夫婦に限らず、いろんな人物がいろんな場面でその台詞を言う。それぞれが「仕様がない」と、事情に追われて、あるいは事情を慮って、うまく片付けられない気持ちをその言葉で強いて収めようとする。
そんな、全体に漂うほんのりとしたやるせなさの中に、一人の人間の、呪縛からの解放が、鮮やかに浮かび上がる。
紀子という存在は、登場人物たちにとっての救いであるとともに、この物語そのもの(と、それを観る人たち)においても救いであるんじゃないだろうか。
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by sumi0313 | 2017-12-05 02:37 | えいが